2009年01月12日

どう落とし込むか『正法眼蔵』「三時業」巻

私の師匠には在家出家あわせて何人いるのか分からないほど、相当な数の弟子がいる。

もちろん、師匠本人はよくわかっているだろうけれども。

その中の一人の、出家の兄弟子。

彼は駒沢大学を卒業したあと、小浜市の発心寺に安居。

そののちに花園大学の大学院に籍を置いて、さらに学術的見地のところからも、禅を学んだ人物である。

その兄弟子と、いつぞや「時間について」の話になった。

あまりに時間が過ぎてしまい、具体的にどんな話の流れから、そんな話になったのかが思い出せないのであるが・・・、

浄土門と禅の比較から、なんとなく「あの世で浄土、この世で浄土」といった話題になったような気がする。

おととい見た映画「禅 ZEN」のオープニングでも、道元少年と死期を迎えようとしている母親の間で、「死んでから浄土に行くようなことではなく、この世が浄土とであるという、真の仏法・・・云々」という会話がなされる。

それじゃあ、前世、死後あるいは来世といったところを、禅者はどうとらえるべきか、ということになり・・・

不勉強な私は、あまり深い思慮もなく、

「前世・来世というのは、不確実なものであるから、即今をどう生きるべきか以外は、論じても仕方がない、それが禅者の基本でないのか」

といったような内容の話をしてしまった。

そうしたところ、兄弟子は・・・

「では、『正法眼蔵』「三時業」巻に書かれていることを、真山さんならどうとらえるか、一度よんでみてください」

くわえて、兄弟子は

「ひょっとすると、浄土門の方がむしろ素直で、とっつきやすいんじゃないかと、今になって思うのです」

などという話もされた。

で、先日から思い出したように『正法眼蔵』「三時業」を読み始めているのであるが・・・

三時業FF

ちょっと余談を記すと、なんとなくそこに書かれている文章はすべて中村勘太郎が書いているような錯覚に陥り・・・違和感、違和感、違和感・・・。


本題に戻って、この三時業は、現世の善行・悪行が現世のうち、または来世やそのまた来世などに、因果としてあらわれることが、当然の真理だとされている。

三時業UP

中村宗一さんの現代語訳を参考にまとめると・・・

三時とは、

一つ目に、現世における身・口・意の禅行・悪行がつみあがって、現在にその果報が現れることを「順現法受」という。

二つ目は、現世の行の積み重ねの果報を、次の生(第二生)に受けることを、「順次生受」という。

三つ目に、この生において作った因が、第二生ではなく、それ以降の第三生、第四生・・・に、あるいはそれ以降、永遠といってもよいほどの時間にわたって、その報いを受けることを「順後次受」という。

これは、第十九祖・鳩摩羅多尊者と、その法を受け継いだ第二十祖・闍夜多尊者の問答であるという。

この巻、実ををいうと、迷い迷いながらなので、まだ読み切っていないし、「別本・三時業」というのもあるので、まずは読み切らなければならないのであるが、現段階で読めているところまでで、正直ちょっとショックを受けている。

このまま読み進むと、最後に

「ウソだびょ〜ん」と書かれているのか・・・?

そんなことも考えてはみたが、あの映画にでていた中村勘太郎の気迫からは、そんな「ウソだびょん」は飛び出しそうにない。

(だから、勘太郎じゃないってば・・・)

先述の兄弟子がいうには、

「同じ禅宗である臨済宗ではこういった考え方に出会ったことはなく、道元禅師オリジナルというふうにいわれています」

もちろん、鳩摩羅多尊者にせよ、闍夜多尊者にせよ、菩提達磨尊者が生まれる前のお祖師さまであるから、当然禅宗という概念もなければ、曹洞宗も臨済宗も、まだ影も形もない時代の話である。

だから、そのころに、何かのたとえ話の類として、十九祖と二十祖さんが会話していたとしても勝手なのだが、わざわざ道元禅師が『正法眼蔵』のひとつの巻として、書き遺している、その本意はどこにあるのか・・・。

さて、どうしたものか。

と、言ってもわかんなきゃ、今すぐには、どうもしないけど・・・。

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在家でも『正法眼蔵』を読まれている方はたくさんいると思うのだけれども、みんな、この「三時業」を腹に落しているのか・・・???

zuirushinzan at 05:17 │Comments(8)TrackBack(0)clip!正法眼蔵 

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この記事へのコメント

1. Posted by tenjin95    2009年01月12日 07:24
> 管理人様

御自身で納得された方が良いと思いますので、詳しくは申し上げません。ただ、前にもお話ししましたが、道元禅師の御著作を学ぶのなら「前提」は置かない方が良いかもしれません。むしろ、著作を学びながら、徐々に自分の思いを作っていかないと辛いと思います。これは、拙僧自身の経験談です。

また、兄弟子の方が仰っているように、臨済宗では三時業はいわないようです。中国の語録には、全く見えません。日本の臨済宗であれば、無住道曉(といっても、この人は所属が怪しいですが・汗)が『沙石集』で三時業を説いていますが、道元禅師の後の人ですね。

一応、以下のような記事もあるので、ご参照ください。多少は役に立つかも知れません。

http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%bb%b0%bb%fe%b6%c8
2. Posted by 真山    2009年01月12日 08:40
tenjin95和尚さま
参究の指針をお示しいただき、ありがとうございます。

>道元禅師の御著作を学ぶのなら「前提」は置かない方が良いかもしれません。むしろ、著作を学びながら、徐々に自分の思いを作っていかないと辛いと思います。

「前提」というよりは、私の場合は「勉強不足な思い込み」ですので、もっと余計なものに違いありません。ご指示のように心がけたいと思います。

前にも教えていただいたことですが、あわてて無理に分かろうとせずに、徐々に、徐々に進めていきたいと思います。
3. Posted by 智常    2009年01月12日 09:37
真山居士殿
坐禅をなされておられるとのこと。小生の所属する人間禅という社会人の坐禅の会にお越しになりませんか?http://www.ningenzen.org/でご確認ください。全国に道場がありますので、どこでも参加できます。小生は横浜で行っております。今こそ、禅修行で心の安心(あんじん)を得たいものですね。合掌 智常
4. Posted by 野狐    2009年01月12日 15:58
真山様、こんにちはです。
みなさん、アラフォーならぬジャスフォーですか!
私は、四十にして惑いまくって自分を再構築しています。。。
HNですが自分を行、少なくして文字を這い回る徒としての揶揄でつけました。
本当は可愛らしい「のぎつね」の心でなくてはいけないのですが・・・w
ところで、先日のお師家さまの「只管打坐」ですがこれは、「莫妄想」「非思量」と言う事ではないかと思えてきました。
う〜ん深い。。。
私見ながら「三時業」は修証義から受ける感じとして「親の因果、子、孫に現れ」との事だと思ってました(汗) 錯、錯・・・では、また 野弧 拝
5. Posted by 真山    2009年01月12日 17:01
智常さま
「人間禅」につきましては、名古屋大学の光明会さんのお世話になっておりまして、一度名古屋の大曽根で行われている坐禅会に一緒しました。
岐阜県での貴団体が行われる接心などにもお誘いいただきましたが、今は時間があれば、まず自分の師匠や、師匠が勧められる老師方に参じたいと思っております。
ご案内、ありがとうございました。
6. Posted by 真山    2009年01月12日 17:26
野狐さま
はいはい、みなジャスフォーですね!
ジャスフォーだけでなく、長い時間をかけてカネにもならない坐禅をしているんだから、阿呆でもありますね!!

全然関係ないですけれども、「野狐禅」という二人組みの歌手もいるらしいです。
あっ、たぶん坐禅とはまったく関係のない歌を歌っているんだと思いますけど。

きょう、じつは図書館に行って「無門関第10則」を調べてきました。
いや、コピーをとっただけで、読み込むのはこれからです・・・(笑)

「非思量」、これについては、思うところありまして、もう少し参究をした上でまた書きたいと思います。
いつもコメントをくださってありがとうございます!
7. Posted by タノQ    2009年01月12日 23:04
きょう三時のオヤツはチョコケーキいただきました。
このケーキはスーパーの特価品で(中略)つまり三時業は景徳伝燈録および大毘婆沙論その他の引用から成り、したがって永平道元禪師オリジナルとはいえません。仮にオリジナルだったとして、だからなんなの、とも思います。

道元禪師の著述や上堂には出典わからんものがあるけど、なにしろ昔のことですし出典あったとしても散逸してて現代には知られないとか、まして書籍になく口傳の類だったら今に失傳してるけど昔はあった、などの可能性あります。すくなくとも、ナッシングだという確證など誰にも證せません。
こんなことは佛道より歴史あたらしい武道にすら頻繁にありまして、そこで ハイなかったのだ ていう態度はあんまり學術的でも実際的でもない、と思われます。
そしてやっぱり、仮にオリジナルだったとして、だからなんなの、とも思いますよ〜。
8. Posted by 真山    2009年01月13日 10:16
タノQさま
私は三時のおやつをたべると、なんとなく胃がもたれて、夕食がおいしくなくなってしまうので、間食はしないようにしております。
ただ会社の冷蔵庫には、グリコのおばさんがやってきて100円アイスを入れていきます。
どうしても甘いものが欲しくなると、そこに手が伸びるのですが・・・。

さて、本題でございますが、「だからなんなの」とおっしゃるとおり、出典の有る無し、および道元禅師のオリジナルか否かは、問題ではないと思います。
私の参究すべき点は、この巻をどう腹に落としていくか、というところにあります。
「論調」という言葉は適切ではないと思うんですが、なんか別の巻とは、論調があまりにも違う・・・ような気がしてならないんです。
もうしばらく迷ってみます。

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