2009年11月07日
いよいよ受験シーズンなんでしょうか
先日、大きい本屋さんにフラリと入ったら、赤本のコーナーができていた。

これは(私が受験生だったころ)は、過去5年分の、その大学の入試問題を集めたものである。
志望大学の赤本は、必ず手に入れて、何度もやり直し、出題傾向と自分のアタマの回転をすり合わせたものである。
また、発行部数がそんなに十分でもないのだろうか、私が受験生の時には、早く買わないと、志望大学の赤本が品切れになってしまうとあせったものであった。
自慢する気持ちは全然ないのだが、三重県内でも、上から数えたほうが早い位置につけている、いわゆる進学校に入っていたので、当時はいっぱしに受験勉強なるものをやっていたのである。
ただし、私はやれ慶応だの早稲田だのといった、難関大学を合格できるような偏差値の持ち主ではなく・・・
「まあ、そこそこ」といわれるような、関西の私立大学を受験し、中国文学科に滑り込んだのが実際のところ。
それでも、高校三年生の追い込み時期では、自分でも「死ぬほど勉強した」と言い切れる。
だいたい、睡眠は5時間程度。
ご飯を食べる時と、お風呂に入っている時と、トイレに入っているとき以外は、鉛筆を握っていた。
さて、そうまでして入った大学ではあるが・・・
卒業して就職してしまえば、なんのことはない。
受験する直前まで、あんなに大きかった大学の名前なんて、まったく通用しない。
受験生諸君が思っているほど、人は偏差値の高い低いで、他人を判断しない。
そりゃ、一昔前は学閥だのなんだのといったことはあったのだろうが、最近そんなことを言っている企業を聞いたことがない。
もし、「彼は●●取締役と同じ京都大学出身だから、出世に口利きが入るぞ!」なんて会話が成立する企業がもしあったら、その企業はあんまりたいしたことがないというか、未来がないだろう。
とはいえ、大学の名前で、バイトの採用不採用が左右されたり、就職でも、大学のネームバリューにあやかる部分というものは、多少ある。
それは否定しない。
でも最近、後輩で入ってくる社員やスタッフを見ていると、本当に出身大学のネームバリューくらいあてにならないものはないなぁ〜。
(実感)
一流大学に入れず、出身大学の名前で勝負できない私としては、好都合なんだけど。
受験生諸君、
なぜ、その大学を選ぶのか、そこで何を学ぶのか、それをよく考えて、受験してちょーだい。
↓クリックのご協力をお願いします!!


これは(私が受験生だったころ)は、過去5年分の、その大学の入試問題を集めたものである。
志望大学の赤本は、必ず手に入れて、何度もやり直し、出題傾向と自分のアタマの回転をすり合わせたものである。
また、発行部数がそんなに十分でもないのだろうか、私が受験生の時には、早く買わないと、志望大学の赤本が品切れになってしまうとあせったものであった。
自慢する気持ちは全然ないのだが、三重県内でも、上から数えたほうが早い位置につけている、いわゆる進学校に入っていたので、当時はいっぱしに受験勉強なるものをやっていたのである。
ただし、私はやれ慶応だの早稲田だのといった、難関大学を合格できるような偏差値の持ち主ではなく・・・
「まあ、そこそこ」といわれるような、関西の私立大学を受験し、中国文学科に滑り込んだのが実際のところ。
それでも、高校三年生の追い込み時期では、自分でも「死ぬほど勉強した」と言い切れる。
だいたい、睡眠は5時間程度。
ご飯を食べる時と、お風呂に入っている時と、トイレに入っているとき以外は、鉛筆を握っていた。
さて、そうまでして入った大学ではあるが・・・
卒業して就職してしまえば、なんのことはない。
受験する直前まで、あんなに大きかった大学の名前なんて、まったく通用しない。
受験生諸君が思っているほど、人は偏差値の高い低いで、他人を判断しない。
そりゃ、一昔前は学閥だのなんだのといったことはあったのだろうが、最近そんなことを言っている企業を聞いたことがない。
もし、「彼は●●取締役と同じ京都大学出身だから、出世に口利きが入るぞ!」なんて会話が成立する企業がもしあったら、その企業はあんまりたいしたことがないというか、未来がないだろう。
とはいえ、大学の名前で、バイトの採用不採用が左右されたり、就職でも、大学のネームバリューにあやかる部分というものは、多少ある。
それは否定しない。
でも最近、後輩で入ってくる社員やスタッフを見ていると、本当に出身大学のネームバリューくらいあてにならないものはないなぁ〜。
(実感)
一流大学に入れず、出身大学の名前で勝負できない私としては、好都合なんだけど。
受験生諸君、
なぜ、その大学を選ぶのか、そこで何を学ぶのか、それをよく考えて、受験してちょーだい。
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2009年11月06日
地域の仏教会
きょうは、また体調がよくなく、会社をお休みにさせてもらった。
そんな事情で、ちょっとだけ更新でお許しを。
まず告知案件から。
『クリスマス坐禅・護摩祈祷の会〜第二回仏教の静と動』は、12月26日(土)の16時30分スタートで、最終調整になりました。
ほぼ、この日程で実行できると思います。
どうぞ、ご参加をお願いします。
また、本院さんからのご伝言で、この翌日27日(日)は、宝蔵院の年末恒例の餅つき大会があるので、連日ご参加いただきたいとのこと。
杵と臼でつきたてのお餅を、その場で、おろし醤油でいただきます。
子供むけには、きな粉やあんこも用意されているので、ファミリーでいらっしゃい、ということです。
ちやみに、去年うちの子供たちは、大喜びでした。
さて、きょうの本題。
きょう朝イチに、かかりつけの医者に行った帰り、いつもとちがう道を通ったところ…
あるお寺さんに、こんな貼り紙が出されていた。

晋山式の稚児行列の募集である。
能登の玉宗和尚のご苦労も知っていたので、ご近所ならば宗派を問わず、桃子を送りだそうと思い、そのお寺さんを訪ねてみると…

なんと、曹洞宗。
これは、是が非でもと思い、ピンポンした。
お出ましになられたのは、ご住職さまではなく、経営されている幼稚園の職員を兼ねた奥様だった。
稚児行列の概要をプリントにまとめたものをいただき、役稚児を申し込んで立ち去ろうとしたところ、奥様からひきとめられた。
私の剃りあげた頭をご覧になって、
「お寺さんですか?」
と、問われたのである。
いえ、私は在家の坐禅修行中の者でございます。
そして得度のいきさつや、師匠の素性など、さまざま問われ、
「一度、住職にお会い頂きたいのですが」
と、いわれ、
「では、幼稚園のこともありましょうから、夜にでも」
と、お伝えし、その場を去ろうとしたところ…
「あのう、それから地域の仏教会というのがありまして、できれば協力いただきたいのですが」
と言われるので、
具体的には何をするのか聞いてみると、どうもティッシュペーパーの配布が、主業務らしい。
まあ、このあたりは住職のさらに詳しいお話を聞いてから協力するかしないかを決めても遅くはあるまい。
そんなことで、わたしはひょっとすると、地域の仏教会に名を連ねることになるかも…。
まあ、桃子の稚児コスプレが、引き寄せたご縁である。
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そんな事情で、ちょっとだけ更新でお許しを。
まず告知案件から。
『クリスマス坐禅・護摩祈祷の会〜第二回仏教の静と動』は、12月26日(土)の16時30分スタートで、最終調整になりました。
ほぼ、この日程で実行できると思います。
どうぞ、ご参加をお願いします。
また、本院さんからのご伝言で、この翌日27日(日)は、宝蔵院の年末恒例の餅つき大会があるので、連日ご参加いただきたいとのこと。
杵と臼でつきたてのお餅を、その場で、おろし醤油でいただきます。
子供むけには、きな粉やあんこも用意されているので、ファミリーでいらっしゃい、ということです。
ちやみに、去年うちの子供たちは、大喜びでした。
さて、きょうの本題。
きょう朝イチに、かかりつけの医者に行った帰り、いつもとちがう道を通ったところ…
あるお寺さんに、こんな貼り紙が出されていた。

晋山式の稚児行列の募集である。
能登の玉宗和尚のご苦労も知っていたので、ご近所ならば宗派を問わず、桃子を送りだそうと思い、そのお寺さんを訪ねてみると…

なんと、曹洞宗。
これは、是が非でもと思い、ピンポンした。
お出ましになられたのは、ご住職さまではなく、経営されている幼稚園の職員を兼ねた奥様だった。
稚児行列の概要をプリントにまとめたものをいただき、役稚児を申し込んで立ち去ろうとしたところ、奥様からひきとめられた。
私の剃りあげた頭をご覧になって、
「お寺さんですか?」
と、問われたのである。
いえ、私は在家の坐禅修行中の者でございます。
そして得度のいきさつや、師匠の素性など、さまざま問われ、
「一度、住職にお会い頂きたいのですが」
と、いわれ、
「では、幼稚園のこともありましょうから、夜にでも」
と、お伝えし、その場を去ろうとしたところ…
「あのう、それから地域の仏教会というのがありまして、できれば協力いただきたいのですが」
と言われるので、
具体的には何をするのか聞いてみると、どうもティッシュペーパーの配布が、主業務らしい。
まあ、このあたりは住職のさらに詳しいお話を聞いてから協力するかしないかを決めても遅くはあるまい。
そんなことで、わたしはひょっとすると、地域の仏教会に名を連ねることになるかも…。
まあ、桃子の稚児コスプレが、引き寄せたご縁である。
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2009年11月05日
しゃぶしゃぶのタレが!!
ここのところ朝晩の冷え込みが徐々に厳しくなってきている。
この時期からだんだん美味しくなってくるものといえば、鍋物。
きのうの夕方、カミさんが「スーパーの特売で安くておいしそうな牛肉を買った」というメールを送ってきたので、夕飯はしゃぶしゃぶをいただこうという返信をして、会社をあとにした。
お家しゃぶしゃぶといえば、私はミツカンの胡麻ダレに、すりおろしにんにくをたっぷり入れるのが、常である。
それが一番美味いと思っている。
口のなかに、その味を思い浮かべて、家に到着してみると・・・
あっ!ミツカンの胡麻ダレが無い!!
冷蔵庫を開けてその事実を知った私にカミさんがひとこと。
「味ぽんでいいじゃない」
そういわれても、一度胡麻ダレモードにスイッチが入った味覚中枢は、かんたんに味ぽんモードに変換が利かない。
ちょっと近くのスーパーに買いに行ってくるから、先に味ぽんでスタートしていてくれ。
「ああ、きょうはあそこのスーパー、お休みだからね」
な、なに・・・。
私は車に乗り込み、最寄のコンビニに向かったが、やっぱりそこには、ミツカンの胡麻ダレは置かれていない。
う〜む、やっぱり無いか。
それならばと、きょうお休みしているスーパーの、さらに先にあるスーパーへと車を走らせた。
ここは、毎日が安売りで有名な最近できたお店である。
安売りがモットーのこのスーパーには、夕食時を過ぎても駐車場に入ろうとする車が渋滞している。
ぬぬぬ・・・イライラ・・・。
やっとのことで、車を止めて、売り場に行ってみると・・・
『エバラしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』はあるのだが、『ミツカンしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』が・・・無い!!
ちょっと、店員さん、ミツカンのは無いんですか?
「あ〜、あれは安くならないんで、ウチには置いて無いですね」
く、くやしい。
それならばと、更にその先にあるスーパーへと、車を走らせた。
さっと車を止めて、売り場にダッシュ。
ところが・・・
確かに、『ミツカンしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』という、商品棚はあるのだが、その棚には、一本も残っていない。
よくみると、「広告の品」というポップが踊っている。
その隣には、『エバラしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』が数多く並んでいた・・・。
ちょっと、店員さん、ミツカンのは無いんですか?
「あ〜、広告に出したんで、売り切れちゃいました」
な、なにーっ!!
そこで、ふっと立ったまま坐禅。(立禅といえばいいのか)
嗚呼、これが貧・瞋・癡!
嗚呼、これが苦(思うようにならないこと)!
嗚呼、これがとらわれ。
嗚呼、これが諸法無我。
嗚呼、これが諸法実相。
嗚呼、これがお悟り・・・。
私は、『エバラしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』を一本手に取り、レジに向かった。
家に到着すると、いい感じに鍋が煮え、味ぽん組の家族が、つつきはじめていた。
そこで私がひとこと。
ミツカンは無かったけど、かろうじてエバラは手に入った。まったくありがたいことだ。
不思議なもので、自分でそう言い切ってしまうと「ミツカンじゃなきゃだめだ」という執念が消えて、エバラがとても美味しい。
嗚呼、涅槃寂静。
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この時期からだんだん美味しくなってくるものといえば、鍋物。
きのうの夕方、カミさんが「スーパーの特売で安くておいしそうな牛肉を買った」というメールを送ってきたので、夕飯はしゃぶしゃぶをいただこうという返信をして、会社をあとにした。
お家しゃぶしゃぶといえば、私はミツカンの胡麻ダレに、すりおろしにんにくをたっぷり入れるのが、常である。
それが一番美味いと思っている。
口のなかに、その味を思い浮かべて、家に到着してみると・・・
あっ!ミツカンの胡麻ダレが無い!!
冷蔵庫を開けてその事実を知った私にカミさんがひとこと。
「味ぽんでいいじゃない」
そういわれても、一度胡麻ダレモードにスイッチが入った味覚中枢は、かんたんに味ぽんモードに変換が利かない。
ちょっと近くのスーパーに買いに行ってくるから、先に味ぽんでスタートしていてくれ。
「ああ、きょうはあそこのスーパー、お休みだからね」
な、なに・・・。
私は車に乗り込み、最寄のコンビニに向かったが、やっぱりそこには、ミツカンの胡麻ダレは置かれていない。
う〜む、やっぱり無いか。
それならばと、きょうお休みしているスーパーの、さらに先にあるスーパーへと車を走らせた。
ここは、毎日が安売りで有名な最近できたお店である。
安売りがモットーのこのスーパーには、夕食時を過ぎても駐車場に入ろうとする車が渋滞している。
ぬぬぬ・・・イライラ・・・。
やっとのことで、車を止めて、売り場に行ってみると・・・
『エバラしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』はあるのだが、『ミツカンしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』が・・・無い!!
ちょっと、店員さん、ミツカンのは無いんですか?
「あ〜、あれは安くならないんで、ウチには置いて無いですね」
く、くやしい。
それならばと、更にその先にあるスーパーへと、車を走らせた。
さっと車を止めて、売り場にダッシュ。
ところが・・・
確かに、『ミツカンしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』という、商品棚はあるのだが、その棚には、一本も残っていない。
よくみると、「広告の品」というポップが踊っている。
その隣には、『エバラしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』が数多く並んでいた・・・。
ちょっと、店員さん、ミツカンのは無いんですか?
「あ〜、広告に出したんで、売り切れちゃいました」
な、なにーっ!!
そこで、ふっと立ったまま坐禅。(立禅といえばいいのか)
嗚呼、これが貧・瞋・癡!
嗚呼、これが苦(思うようにならないこと)!
嗚呼、これがとらわれ。
嗚呼、これが諸法無我。
嗚呼、これが諸法実相。
嗚呼、これがお悟り・・・。
私は、『エバラしゃぶしゃぶの胡麻ダレ』を一本手に取り、レジに向かった。
家に到着すると、いい感じに鍋が煮え、味ぽん組の家族が、つつきはじめていた。
そこで私がひとこと。
ミツカンは無かったけど、かろうじてエバラは手に入った。まったくありがたいことだ。
不思議なもので、自分でそう言い切ってしまうと「ミツカンじゃなきゃだめだ」という執念が消えて、エバラがとても美味しい。
嗚呼、涅槃寂静。
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2009年11月04日
「本物」って、こんなことか。
ようやく神経症が治まり、けさは5:00にすっきりと目覚めがきた。
11月に入って、少しずつ冷え込みが初まり、正直なところふとんからでるのに多少ためらいが生じたことをゲロっておく。
そんでもって、先日からちょっと気になっているのだが、結跏趺坐していると、降魔坐の場合、左足に痺れがくる。
これはおそらく、上半身を反り返らせ、やや後ろに傾くクセがあることを意識して、やや前傾するくらいの気持ちで坐っていることによるものだと思われるが・・・
その一方で以前まで気になっていた背中の筋のハリは見事に消えているので、あまり坐相を変えたくない。
更に一工夫が必要でありそうである。
さて、ココからが本日の本題。
先日、原田雪渓老師に独参して以来・・・というよりも、おぼろげなテーマとしては、ずいぶん前から自分の中にあったことなのだが、『本物の禅僧』と言われるような方々には、どんな共通点があるのだろうか、ということである。
これが、原田老師にお会いする機会を得て、より一層、自分の中のテーマとしてはっきりとした。
たとえば、この原田雪渓老師をつかまえて、「ありゃ、ニセモノだ」という修行者はいまい。
ただ、まっしぐらに修行をするものに、ニセモノなどいないし、ひたすらに仏道を行くものは、ひたすらに本物でないはずがない。
カッコウだけ僧侶風に決めて、物乞いをする「エセ」がいないわけではないが、そんなものは論外で、ここで取上げていることではない。
それから、ちょっとくどいかもしれないが、「大寺院の住職である」とか、「大本山の監院老師さんである」とか、「師家」であるとか・・・そんなネームバリューというか、肩書きを云々したいワケでもない。
名の知れない本物は、全国にたくさんいらっしゃるはずである。
今年の五月。
私と貧乏作曲家は、寶慶寺の摂心会に参じた。
その暁天坐禅。
堂長老師は、我々参禅者とともに、外単にお坐りになっていた。
禅堂の外では、空が白んでいく。
そのとき、老師がこのように話された。
「空が明るくなっていきます。天地の夜明けです。真理とはこれしかないんです」
と。
文字面で読んでしまえば、当たり前のことを当たり前にお話になっているように感じられるかもしれないが、私も貧乏人も、その瞬間に鳥肌が立ったのを、よく覚えている。
そのままのことをそのままに見る智慧を体得した方が、本物であるということがひとつ言えるかもしれない。
ただし「そのまま」なんてものが自分の中にあるうちは、本来の法のありようが分かった気になっちゃってるだけかもしれない。
どうも、ここに落とし穴が隠されている気が最近している。
きのうは文化の日で会社はお休みだった。
それで、久しぶりに『正法眼蔵全講 一顆明珠』を読んでいると、岸澤惟安老師の提唱の中に、こんな話が出てきた。
本文をそのまま抜き出す。
(玄沙師備が、尽十方世界を一顆の明珠である、と言ったことについて)
自己の腹のなかから、自己の得たるところを、自分のことばでもってあらわした。これが(中略)学問坊主ににはできないことだ。
自分の腹から、自分の修行しただけを、自分のことばであらわす、これが禅坊主のねうちだ。
禅坊主のねうちがどこにあるかどうかは、私にはよく分からないが、確かに自分の修行しただけを、自分の言葉であらわしたとき、それが他の修行者にも響く。
その共鳴を、「本物」と呼ぶのかもしれない、と思った。
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11月に入って、少しずつ冷え込みが初まり、正直なところふとんからでるのに多少ためらいが生じたことをゲロっておく。
そんでもって、先日からちょっと気になっているのだが、結跏趺坐していると、降魔坐の場合、左足に痺れがくる。
これはおそらく、上半身を反り返らせ、やや後ろに傾くクセがあることを意識して、やや前傾するくらいの気持ちで坐っていることによるものだと思われるが・・・
その一方で以前まで気になっていた背中の筋のハリは見事に消えているので、あまり坐相を変えたくない。
更に一工夫が必要でありそうである。
さて、ココからが本日の本題。
先日、原田雪渓老師に独参して以来・・・というよりも、おぼろげなテーマとしては、ずいぶん前から自分の中にあったことなのだが、『本物の禅僧』と言われるような方々には、どんな共通点があるのだろうか、ということである。
これが、原田老師にお会いする機会を得て、より一層、自分の中のテーマとしてはっきりとした。
たとえば、この原田雪渓老師をつかまえて、「ありゃ、ニセモノだ」という修行者はいまい。
ただ、まっしぐらに修行をするものに、ニセモノなどいないし、ひたすらに仏道を行くものは、ひたすらに本物でないはずがない。
カッコウだけ僧侶風に決めて、物乞いをする「エセ」がいないわけではないが、そんなものは論外で、ここで取上げていることではない。
それから、ちょっとくどいかもしれないが、「大寺院の住職である」とか、「大本山の監院老師さんである」とか、「師家」であるとか・・・そんなネームバリューというか、肩書きを云々したいワケでもない。
名の知れない本物は、全国にたくさんいらっしゃるはずである。
今年の五月。
私と貧乏作曲家は、寶慶寺の摂心会に参じた。
その暁天坐禅。
堂長老師は、我々参禅者とともに、外単にお坐りになっていた。
禅堂の外では、空が白んでいく。
そのとき、老師がこのように話された。
「空が明るくなっていきます。天地の夜明けです。真理とはこれしかないんです」
と。
文字面で読んでしまえば、当たり前のことを当たり前にお話になっているように感じられるかもしれないが、私も貧乏人も、その瞬間に鳥肌が立ったのを、よく覚えている。
そのままのことをそのままに見る智慧を体得した方が、本物であるということがひとつ言えるかもしれない。
ただし「そのまま」なんてものが自分の中にあるうちは、本来の法のありようが分かった気になっちゃってるだけかもしれない。
どうも、ここに落とし穴が隠されている気が最近している。
きのうは文化の日で会社はお休みだった。
それで、久しぶりに『正法眼蔵全講 一顆明珠』を読んでいると、岸澤惟安老師の提唱の中に、こんな話が出てきた。
本文をそのまま抜き出す。
(玄沙師備が、尽十方世界を一顆の明珠である、と言ったことについて)
自己の腹のなかから、自己の得たるところを、自分のことばでもってあらわした。これが(中略)学問坊主ににはできないことだ。
自分の腹から、自分の修行しただけを、自分のことばであらわす、これが禅坊主のねうちだ。
禅坊主のねうちがどこにあるかどうかは、私にはよく分からないが、確かに自分の修行しただけを、自分の言葉であらわしたとき、それが他の修行者にも響く。
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2009年11月03日
カミさんと離婚します
ちょっと気が早いかもしれないが、いよいよこの年末には、宝くじが当たるので、家族に心構えするように、申し伝えた。
あっ、それから、このブログ上で「もし今回宝くじが当たったら…」という約束事を毎度毎度書いているが、今回は、そんな書き方はしない。
これまでの約束は、いったん全部チャラにする。
三億当たったら、すべて出家のために使うのである。
それで、カミさんに、こう説明した。
出家するに当たっては、俺と離婚してくれ。
「へ〜、出家するのには、妻帯してるとダメなんだ」
いや、ダメということではないが、比丘となるための、自分なりのけじめだ。
「離婚ね〜」
だから養育費として二億をお前に渡し、その上、残る一億からこの家のローンを完済して、お前に譲る。
こんな、好条件な離婚はないだろう。
「そっか、二億ってことは、このあとの20年、年間手取りベースで一千万円の生活か…」
しかも、住宅ローンもなければ、俺の小遣いもそこから出さないでいいわけだ。
「ふ〜ん、で残った数千万円は?」
廃寺の復興に、全額つぎ込む。
「じゃあ、あなたの食費はどうするの?」
托鉢!口あって食らわずということなし、なのだ。
「パンツのゴムが緩んできても、托鉢だけだとなかなか新しいのを買えないわよ」
肩あって着ずということなし、又あってはかずということなし、である。
「ふ〜ん…でも、あなたと離婚って、やっぱり抵抗感がある」
離婚といってもだなぁ、それはあくまで書面上の話であってだなあ、形式的なだけで、俺たちはいつまでも夫婦であることに変わりないのだ。
いってみれば、離婚届に判子を突くだけの話でしかない。
「あっ、なんかその言い方、詐欺師のテクニックみたい…」
出家を志す人間に向かって、詐欺師って…。
「お坊さんか詐欺師かどっちでもいいんだけど、忙しいから、この話、宝くじが当たってからでいい?」
むむむ…。
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あっ、それから、このブログ上で「もし今回宝くじが当たったら…」という約束事を毎度毎度書いているが、今回は、そんな書き方はしない。
これまでの約束は、いったん全部チャラにする。
三億当たったら、すべて出家のために使うのである。
それで、カミさんに、こう説明した。
出家するに当たっては、俺と離婚してくれ。
「へ〜、出家するのには、妻帯してるとダメなんだ」
いや、ダメということではないが、比丘となるための、自分なりのけじめだ。
「離婚ね〜」
だから養育費として二億をお前に渡し、その上、残る一億からこの家のローンを完済して、お前に譲る。
こんな、好条件な離婚はないだろう。
「そっか、二億ってことは、このあとの20年、年間手取りベースで一千万円の生活か…」
しかも、住宅ローンもなければ、俺の小遣いもそこから出さないでいいわけだ。
「ふ〜ん、で残った数千万円は?」
廃寺の復興に、全額つぎ込む。
「じゃあ、あなたの食費はどうするの?」
托鉢!口あって食らわずということなし、なのだ。
「パンツのゴムが緩んできても、托鉢だけだとなかなか新しいのを買えないわよ」
肩あって着ずということなし、又あってはかずということなし、である。
「ふ〜ん…でも、あなたと離婚って、やっぱり抵抗感がある」
離婚といってもだなぁ、それはあくまで書面上の話であってだなあ、形式的なだけで、俺たちはいつまでも夫婦であることに変わりないのだ。
いってみれば、離婚届に判子を突くだけの話でしかない。
「あっ、なんかその言い方、詐欺師のテクニックみたい…」
出家を志す人間に向かって、詐欺師って…。
「お坊さんか詐欺師かどっちでもいいんだけど、忙しいから、この話、宝くじが当たってからでいい?」
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2009年11月02日
クリスマスな仏教イベント
ちょっと前にこのサイトにも書き、一部の方にはメールも差し上げていたのであるが、例の真言宗寺院の宝蔵院のご住職さまに、また坐禅と護摩祈祷の会を行わないか、というお話をさせていただいた。
あっ、そうそう、「ご住職さま」は、お寺では「本院さん」と呼ばれているようなので、ここでも以下「本院さん」を採用させていただく。
で、本院さん、またやりませんか『坐禅と護摩祈祷の会』
「いいですね、真山さん。やりますか」
まあ、12月に入れば、陽が落ちるのも早いですし、明るさだけを考えれば、午後4:30ごろから坐禅を始めれば、後半の護摩祈祷は、夜の暗闇のなかで行じることができると思います。
ちょっと前回の様子を振り返っておきたい。
詳しい報告はこのリンク先をご覧いただくこととして・・・
そもそもこの宝蔵院さんとは、仕事の上でのご縁がはじまり。
その仕事が終わった現在でも、せっかく仏弟子同士がお知り合いになれたのだから、宗派は違えども、仏教を通じて引き続きお付き合いしたいということで、仲良くさせていただいている。
で、最初はいっしょに焼肉を食べに行くという、非常に生臭いところからはじまったのであるが・・・
せっかくプロの密教僧がいて、坐禅の修行者がいるのであるから、何か仏に帰依するような企画をやりたいと思い立った。
それが「仏教の静と動〜坐禅と護摩祈祷の会」。
前半は、真っ暗な不動堂の中に、蝋燭の灯火のみをともし、静かに坐禅。
それが終わると同時に、千手観音堂(護摩堂)に一同が移動して、護摩の炎が巻き上がる中で、一心不乱に般若心経と観音経を大きな声を振り絞ってお唱えする。
まさに、仏教の「静」の修行と「動」の修行を一夜にして体験してしまおうとという企画である。
それで、集ってくださった方の顔ぶれはといえば・・・
山がけをしていらっしゃる方だとか、ここにコメントをくださる御嶽行者さんとか、まあ、宗教的には多種多様。
会は、行者さんがわざわざ御嶽山で汲んできた、清水を飲んで気合を入れるところから、スタートした・・・。
結果的には、この宗派ごちゃまぜ感がなんとも楽しく、護摩壇の炎の前で、みなが祈りの行に入っていく感じ。

本院さんご自身も「かなり気持ちが入っていった祈祷だった」と感想を述べられた。
で、本院さん、いつごろなら出来ますか?
「真山さん、どうせやるなら、クリスマス坐禅・祈祷会なんてどう?」
いいですねぇ〜。その<宗教入り乱れ感>が、すばらしい!
現在、12月19日(土)16:30集合を第一候補に調整中。
場所は同じく、この名古屋市中川区の宝蔵院。
ただし、12月はお寺さんも私自身も、相当忙しい時期であるので、最終確定はいつになるのか約束できない状況ではあるが・・・
今週木曜日に、本院さんとお会いするので、そのときにもしかすると確定できるかも。
いずれにせよ、きちんと続報をお出しいたします。
クリスチャンの方も、お念仏の方も、無宗教の方も・・・どうぞ、ご参加くださいませませ。
↓クリックのご協力をお願いします!!

ホント言うと、次回当たりは「お念仏と護摩祈祷の会」にしたいんだよな〜。
名古屋にお住まいの、念仏宗のお坊さんで、ご指導くださる方、いませんかね?
あっ、そうそう、「ご住職さま」は、お寺では「本院さん」と呼ばれているようなので、ここでも以下「本院さん」を採用させていただく。
で、本院さん、またやりませんか『坐禅と護摩祈祷の会』
「いいですね、真山さん。やりますか」
まあ、12月に入れば、陽が落ちるのも早いですし、明るさだけを考えれば、午後4:30ごろから坐禅を始めれば、後半の護摩祈祷は、夜の暗闇のなかで行じることができると思います。
ちょっと前回の様子を振り返っておきたい。
詳しい報告はこのリンク先をご覧いただくこととして・・・
そもそもこの宝蔵院さんとは、仕事の上でのご縁がはじまり。
その仕事が終わった現在でも、せっかく仏弟子同士がお知り合いになれたのだから、宗派は違えども、仏教を通じて引き続きお付き合いしたいということで、仲良くさせていただいている。
で、最初はいっしょに焼肉を食べに行くという、非常に生臭いところからはじまったのであるが・・・
せっかくプロの密教僧がいて、坐禅の修行者がいるのであるから、何か仏に帰依するような企画をやりたいと思い立った。
それが「仏教の静と動〜坐禅と護摩祈祷の会」。
前半は、真っ暗な不動堂の中に、蝋燭の灯火のみをともし、静かに坐禅。
それが終わると同時に、千手観音堂(護摩堂)に一同が移動して、護摩の炎が巻き上がる中で、一心不乱に般若心経と観音経を大きな声を振り絞ってお唱えする。
まさに、仏教の「静」の修行と「動」の修行を一夜にして体験してしまおうとという企画である。
それで、集ってくださった方の顔ぶれはといえば・・・
山がけをしていらっしゃる方だとか、ここにコメントをくださる御嶽行者さんとか、まあ、宗教的には多種多様。
会は、行者さんがわざわざ御嶽山で汲んできた、清水を飲んで気合を入れるところから、スタートした・・・。
結果的には、この宗派ごちゃまぜ感がなんとも楽しく、護摩壇の炎の前で、みなが祈りの行に入っていく感じ。

本院さんご自身も「かなり気持ちが入っていった祈祷だった」と感想を述べられた。
で、本院さん、いつごろなら出来ますか?
「真山さん、どうせやるなら、クリスマス坐禅・祈祷会なんてどう?」
いいですねぇ〜。その<宗教入り乱れ感>が、すばらしい!
現在、12月19日(土)16:30集合を第一候補に調整中。
場所は同じく、この名古屋市中川区の宝蔵院。
ただし、12月はお寺さんも私自身も、相当忙しい時期であるので、最終確定はいつになるのか約束できない状況ではあるが・・・
今週木曜日に、本院さんとお会いするので、そのときにもしかすると確定できるかも。
いずれにせよ、きちんと続報をお出しいたします。
クリスチャンの方も、お念仏の方も、無宗教の方も・・・どうぞ、ご参加くださいませませ。
↓クリックのご協力をお願いします!!
ホント言うと、次回当たりは「お念仏と護摩祈祷の会」にしたいんだよな〜。
名古屋にお住まいの、念仏宗のお坊さんで、ご指導くださる方、いませんかね?
2009年11月01日
「環」って、なんだ?
相変わらずの自律神経不調である。
きのうは眠り薬を飲んでも眠れず、もう一錠追加しても眠れず・・・
最後に時計を見たのが午前三時ごろ。
さすがに5:00には起床できず、7:00に起きて子供たちにご飯を作って食べさせて、8:35分から9:15分までの40分一柱ということになった。
う〜ん、どうにかこの不調を乗り越えたいが、今抱えている大きな案件が終わらないウチは無理かもしれない・・・。
さて、坐禅が終わると、そんな時間から朝課するわけにもいかないので、坐禅部屋の掃除を始めた。
洗濯物を干そうと、2階に上がって来たカミさんがその様子をみて、
「作務やってんのね」
仏教や禅というものには全く無関心だった彼女の口からいよいよ【作務】という言葉が発せられるようになったのか・・・。
ちょっとした驚きである。
「でもさぁ、サムっていうと、なんかアメリカ人の友達がいるみたい!」
まあ、それくらいのことは言わせておくか・・・。

仏具を全部外に出して、掃除機をかけると言っても、たったの三畳一間だから、あっという間である。
仏壇の拭き掃除や香炉の灰作務までやっつけて、ふと窓の外を見た。

夏場の朝5:30はすでに明るく、決まってこの電信柱のてっぺんに鳥が飛んできて・・・

(8月に撮影)
「ホーホー、ホッホー」とうるさいくらいに鳴いていたものだが、最近姿を見なくなり、鳴き声を聞くこともなくなってしまった。
寒くなる前に、どこか温暖な気候の地域へ飛んでいったのだろうか。
また、来年一緒に坐禅ができるとよいのだが。
さて、ここからが本日の本題。
先日、絡子の話であれこれご意見をいただくことになり、リアルな世界でもあるお坊さんから、「やっぱり黒であるべきだ」などという話を聞いたが、私の気持ちは変わらない。
黒がダメだという参禅先がある以上、そちらも尊重せねばならんのである。
それで、ひとつだけ気になっていたことがある。
「環」が付いていないものであれば、絡子をかけてもよい。
この考え方である。
「環」とは、絡子についている輪状のものである。

これ↑、私の絡子であるが、写真右上の白い輪っかが、環である。
いったいどういう理由で、環がダメなのか、ちょっと調べられる範囲で、調べてみた。
私の調べが至らなかった点を発見した場合は、ぜひご指摘を願いたい。
そもそも「環」とは何か・・・ということである。
更にそもそも絡子とは何かを探ってみるところから始めると、これはミニチュアのお袈裟である。
正式なお袈裟の場合、四角いお袈裟の角と角をひもで結んで、左肩にかけるのだが、そんな恰好だと作務がやりにくいので、ミニチュアの袈裟をつくって、胸の前に首からぶら下げることになったのが、どうも始まりらしい。
やっぱり原形をたどっていくと、お袈裟ということになる。
では、環はどこからやってきたのかというと・・・
ひとつ、ものすごい説に出会った。
「環というものは、曹洞宗には永平寺と総持寺という二つの本山がありながら、派に分かれず、仲良く共存している、親愛の証しとして、絡子につけられているのである」
じゃあ、分派しちゃった臨済宗のお坊さんは環を付けないということになるが・・・
当たり前のように、臨済宗でも環のついた絡子は用いられている。
気を取り直して、「環」とは何か。
その臨済宗の中興の祖である白隠禅師の肖像画を見てみると・・・

絡子ではなく、お袈裟に環がついている。
栄西禅師のお袈裟にも・・・

鈴木正三(しょうさん)のお袈裟にも・・・
(※はずかしながら最近まで「しょうぞう」だと思っていた)

ちょっと小さくて分かりづらいかもしれないが、天童如浄禅師のお袈裟にも環はある。

そこで、昔のお坊さんたちのお袈裟の構造を考えると、環の存在理由がよく分かる。
絵として一番分かりやすいのは、隠元さんの肖像画。

よくみると、ドーナツ状の環に、フックをひっかけている。

ほらね。
これが旧来型のお袈裟の構造だったのである。
臨済宗のことはよく知らないが、曹洞宗の若いお坊さんのお袈裟を見せていただくと、環にフックをひっかける方式のものではなくて、ひもを結ぶ構造になっている。
それと、調べているうちにいろいろ要らない情報に出会うのだが・・・
お袈裟の左肩のひもの結び目を、総持寺はわざと見せるようにし、永平寺ではお袈裟ので隠すようにするのが流儀だとかなんとか・・・
まあ、そんな各山々の家風の話はさておき・・・
現在の絡子の環は、この輪とフックの構造だったころの名残りと考えてよいらしい。
ということは・・・
やっぱり「環」のついていないものならよいというのは、無根拠ということにならないだろうか・・・。
あんまり突っかかると、怒られそうだから、この辺でやめとこっと。
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きのうは眠り薬を飲んでも眠れず、もう一錠追加しても眠れず・・・
最後に時計を見たのが午前三時ごろ。
さすがに5:00には起床できず、7:00に起きて子供たちにご飯を作って食べさせて、8:35分から9:15分までの40分一柱ということになった。
う〜ん、どうにかこの不調を乗り越えたいが、今抱えている大きな案件が終わらないウチは無理かもしれない・・・。
さて、坐禅が終わると、そんな時間から朝課するわけにもいかないので、坐禅部屋の掃除を始めた。
洗濯物を干そうと、2階に上がって来たカミさんがその様子をみて、
「作務やってんのね」
仏教や禅というものには全く無関心だった彼女の口からいよいよ【作務】という言葉が発せられるようになったのか・・・。
ちょっとした驚きである。
「でもさぁ、サムっていうと、なんかアメリカ人の友達がいるみたい!」
まあ、それくらいのことは言わせておくか・・・。

仏具を全部外に出して、掃除機をかけると言っても、たったの三畳一間だから、あっという間である。
仏壇の拭き掃除や香炉の灰作務までやっつけて、ふと窓の外を見た。

夏場の朝5:30はすでに明るく、決まってこの電信柱のてっぺんに鳥が飛んできて・・・

(8月に撮影)
「ホーホー、ホッホー」とうるさいくらいに鳴いていたものだが、最近姿を見なくなり、鳴き声を聞くこともなくなってしまった。
寒くなる前に、どこか温暖な気候の地域へ飛んでいったのだろうか。
また、来年一緒に坐禅ができるとよいのだが。
さて、ここからが本日の本題。
先日、絡子の話であれこれご意見をいただくことになり、リアルな世界でもあるお坊さんから、「やっぱり黒であるべきだ」などという話を聞いたが、私の気持ちは変わらない。
黒がダメだという参禅先がある以上、そちらも尊重せねばならんのである。
それで、ひとつだけ気になっていたことがある。
「環」が付いていないものであれば、絡子をかけてもよい。
この考え方である。
「環」とは、絡子についている輪状のものである。

これ↑、私の絡子であるが、写真右上の白い輪っかが、環である。
いったいどういう理由で、環がダメなのか、ちょっと調べられる範囲で、調べてみた。
私の調べが至らなかった点を発見した場合は、ぜひご指摘を願いたい。
そもそも「環」とは何か・・・ということである。
更にそもそも絡子とは何かを探ってみるところから始めると、これはミニチュアのお袈裟である。
正式なお袈裟の場合、四角いお袈裟の角と角をひもで結んで、左肩にかけるのだが、そんな恰好だと作務がやりにくいので、ミニチュアの袈裟をつくって、胸の前に首からぶら下げることになったのが、どうも始まりらしい。
やっぱり原形をたどっていくと、お袈裟ということになる。
では、環はどこからやってきたのかというと・・・
ひとつ、ものすごい説に出会った。
「環というものは、曹洞宗には永平寺と総持寺という二つの本山がありながら、派に分かれず、仲良く共存している、親愛の証しとして、絡子につけられているのである」
じゃあ、分派しちゃった臨済宗のお坊さんは環を付けないということになるが・・・
当たり前のように、臨済宗でも環のついた絡子は用いられている。
気を取り直して、「環」とは何か。
その臨済宗の中興の祖である白隠禅師の肖像画を見てみると・・・

絡子ではなく、お袈裟に環がついている。
栄西禅師のお袈裟にも・・・

鈴木正三(しょうさん)のお袈裟にも・・・
(※はずかしながら最近まで「しょうぞう」だと思っていた)

ちょっと小さくて分かりづらいかもしれないが、天童如浄禅師のお袈裟にも環はある。

そこで、昔のお坊さんたちのお袈裟の構造を考えると、環の存在理由がよく分かる。
絵として一番分かりやすいのは、隠元さんの肖像画。

よくみると、ドーナツ状の環に、フックをひっかけている。

ほらね。
これが旧来型のお袈裟の構造だったのである。
臨済宗のことはよく知らないが、曹洞宗の若いお坊さんのお袈裟を見せていただくと、環にフックをひっかける方式のものではなくて、ひもを結ぶ構造になっている。
それと、調べているうちにいろいろ要らない情報に出会うのだが・・・
お袈裟の左肩のひもの結び目を、総持寺はわざと見せるようにし、永平寺ではお袈裟ので隠すようにするのが流儀だとかなんとか・・・
まあ、そんな各山々の家風の話はさておき・・・
現在の絡子の環は、この輪とフックの構造だったころの名残りと考えてよいらしい。
ということは・・・
やっぱり「環」のついていないものならよいというのは、無根拠ということにならないだろうか・・・。
あんまり突っかかると、怒られそうだから、この辺でやめとこっと。
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2009年10月31日
明るい家族計画
自律神経系の調子がなかなか良くならない。
今朝も一応、5:00には起きて、歯磨き・洗面を済ませたが、ものすごい気分の悪さにさいなまれて・・・
「こりゃ、無理して坐っても坐禅にならん」
と思い、9:00まで二度寝。
10:00から40分の一柱を坐った。
不調の原因は分かっているのである。
仕事上の、他へ持っていきようのない心配事、諸問題である。
きょうもその一部を片付けてしまおうと出勤しており、現在会社のパソコンでこの記事を更新中である。
そんなことなので、きょうは軽いネタである。
今週木曜日から年賀はがきの発売が始まった。
いよいよそんな季節である。
いっちゃなんだが、年賀状の作成作業は、師走のクソ忙しいさなかに、超メンドクサイ。
しかし、元旦に一枚も年賀状が届かなかったら、それはそれで結構さびしいと感じるのは、私だけではないだろう。
そんなことで、私は面倒だと思いながらも、これはやらねばと毎年12月には、奮起して作業するのである。
まあ実際、いったん筆を執り始めると、けっこう年に一度しかやりとりしない友人たちの顔を思い出したりして、楽しかったりもする。
さて、毎年一度は年賀状の話題を取上げて、繰り返し申し上げているのであるが・・・
今年は、例年よりやや早めに、忠告しておきたい。
それは、子供だけを映した写真を年賀状に刷り込んで送ってくる御仁が多いが、あなたたちにに言っておく!
「俺は、お前の子供の成長なんか、見たくもない。元気で育っておれば、それでいいのだ。子供の写真なんかより見たいのは、むしろしばらく会っていない、最近のお前を映した写真だぁあああ!!」
ということである。
つまり、可愛いわが子の成長を皆に見せびらかしたい気持ちは、私も二人の子供を持つ親として、そりゃ、理解もできる。
ただ、受け取るほうは、まったくそんなお前さんの子供には興味はないのだ。
興味があるのは、むしろ最近のお前さん自身のことなのだ。
真山は、お前さんのことこそが、好きなのだ・・・。
で、そこまで言っても子供の写真を送りたいのであるならば、子供と一緒に自分も写った写真を採用せよ。
・・・ってな感じで、毎年注意喚起している以上、私がその運動を率先して行なわねばならない。
ただ、家族の写真を撮ろうとすると、シャッターを切ってくれる第三者が必要になってくる。
まあ、写真館などに行けば一発だけれど、何万円も金がかかる。
しかし、そんな我が家の行事に、貴重な時間を割いてくれるアマチュアフォトグラファーは、近所にいないので、どうしてもセルフタイマー頼みになる。
ここが、家族写真の面倒なところであるのだ。
だから、毎年なかなか腰が上がらない。
しかも!
我が家には、デジカメがないので、フィルム式のカメラを三脚に立てて撮影するのだが・・・
うまく撮れているかどうかが、その場で確認できないものであるから、2歳の谿声のテンションが持ちこたえられる限り、念のため何枚も同じ写真を撮る。
だいたい27枚撮りのフィルム一本、全部同じ家族の4ショットを取りまくって、使えるのは2〜3枚という、非常に厳しい条件なのである。
今年はあの財布の紐の硬いカミさんが、
「ウチも、いよいよデジカメ買う?」
と言い始めたほどである。
しかし、フィルムで撮った写真というものには、独特の味わいもあるし、しかも私のペンタックスの一眼レフは、まだまだ使えるのである。
今回ばかりは、私の方でその買物を却下した・・・。
そして今年は、この写真撮影について、ある計画をアタマの中に描いていた。
桃子の七五三の日に、ついでに家族写真を撮ってしまうということである。
衣装などに悩まなくても、みんな和装なら格好はつく。
(谿声だけは洋服だが)
そんなことで、計画は順調にすすみ、実をいうとすでに写真は出来上がっているのだ・・・。
このペースで行くと、年賀状の発送受付が始まる初日には、住所書きもすべて終えられているはずである。
そんなことは、生まれてはじめてかもしれない。
我ながら、実にすばらしい計画の遂行である。
こういうのを、「明るい家族計画」っていうんだろうな。
って、全然ちがうか。
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今朝も一応、5:00には起きて、歯磨き・洗面を済ませたが、ものすごい気分の悪さにさいなまれて・・・
「こりゃ、無理して坐っても坐禅にならん」
と思い、9:00まで二度寝。
10:00から40分の一柱を坐った。
不調の原因は分かっているのである。
仕事上の、他へ持っていきようのない心配事、諸問題である。
きょうもその一部を片付けてしまおうと出勤しており、現在会社のパソコンでこの記事を更新中である。
そんなことなので、きょうは軽いネタである。
今週木曜日から年賀はがきの発売が始まった。
いよいよそんな季節である。
いっちゃなんだが、年賀状の作成作業は、師走のクソ忙しいさなかに、超メンドクサイ。
しかし、元旦に一枚も年賀状が届かなかったら、それはそれで結構さびしいと感じるのは、私だけではないだろう。
そんなことで、私は面倒だと思いながらも、これはやらねばと毎年12月には、奮起して作業するのである。
まあ実際、いったん筆を執り始めると、けっこう年に一度しかやりとりしない友人たちの顔を思い出したりして、楽しかったりもする。
さて、毎年一度は年賀状の話題を取上げて、繰り返し申し上げているのであるが・・・
今年は、例年よりやや早めに、忠告しておきたい。
それは、子供だけを映した写真を年賀状に刷り込んで送ってくる御仁が多いが、あなたたちにに言っておく!
「俺は、お前の子供の成長なんか、見たくもない。元気で育っておれば、それでいいのだ。子供の写真なんかより見たいのは、むしろしばらく会っていない、最近のお前を映した写真だぁあああ!!」
ということである。
つまり、可愛いわが子の成長を皆に見せびらかしたい気持ちは、私も二人の子供を持つ親として、そりゃ、理解もできる。
ただ、受け取るほうは、まったくそんなお前さんの子供には興味はないのだ。
興味があるのは、むしろ最近のお前さん自身のことなのだ。
真山は、お前さんのことこそが、好きなのだ・・・。
で、そこまで言っても子供の写真を送りたいのであるならば、子供と一緒に自分も写った写真を採用せよ。
・・・ってな感じで、毎年注意喚起している以上、私がその運動を率先して行なわねばならない。
ただ、家族の写真を撮ろうとすると、シャッターを切ってくれる第三者が必要になってくる。
まあ、写真館などに行けば一発だけれど、何万円も金がかかる。
しかし、そんな我が家の行事に、貴重な時間を割いてくれるアマチュアフォトグラファーは、近所にいないので、どうしてもセルフタイマー頼みになる。
ここが、家族写真の面倒なところであるのだ。
だから、毎年なかなか腰が上がらない。
しかも!
我が家には、デジカメがないので、フィルム式のカメラを三脚に立てて撮影するのだが・・・
うまく撮れているかどうかが、その場で確認できないものであるから、2歳の谿声のテンションが持ちこたえられる限り、念のため何枚も同じ写真を撮る。
だいたい27枚撮りのフィルム一本、全部同じ家族の4ショットを取りまくって、使えるのは2〜3枚という、非常に厳しい条件なのである。
今年はあの財布の紐の硬いカミさんが、
「ウチも、いよいよデジカメ買う?」
と言い始めたほどである。
しかし、フィルムで撮った写真というものには、独特の味わいもあるし、しかも私のペンタックスの一眼レフは、まだまだ使えるのである。
今回ばかりは、私の方でその買物を却下した・・・。
そして今年は、この写真撮影について、ある計画をアタマの中に描いていた。
桃子の七五三の日に、ついでに家族写真を撮ってしまうということである。
衣装などに悩まなくても、みんな和装なら格好はつく。
(谿声だけは洋服だが)
そんなことで、計画は順調にすすみ、実をいうとすでに写真は出来上がっているのだ・・・。
このペースで行くと、年賀状の発送受付が始まる初日には、住所書きもすべて終えられているはずである。
そんなことは、生まれてはじめてかもしれない。
我ながら、実にすばらしい計画の遂行である。
こういうのを、「明るい家族計画」っていうんだろうな。
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2009年10月30日
ざぜんがくめる(二)
ちょっとブログの色目を変えてみた。
最初ちょっと気に入らないかもしれないが、まあ、しばらくするとなれるものだろうと思うので、引き続きよろしくお願いしたい。
さて、きのうの続きである。
「ざぜんがくめる」のNO.9田中さんの実物がどうしても見たくなり・・・
(↓この人ね)

寿司屋の大将に、ミスコンイベントの日時はいつか、メールで問い合わせたところ・・・
なんと、スタートはきょうの12:00!!
で、いま、取材に行ってきた。

学生さんのイベントなので仕切りが多少悪い点は仕方がないのだが・・・
一階フロアの会場に入れるのは、エントリーした乙女の応援団だけに限られてしまうというのが、どうしても理解に苦しむところ。
我々取材陣(?)や一般の見学者は、階上からしか見ることが出来ず、アップの写真が撮れない。
ああ、ナガダマのレンズを持っていけばよかった・・・。
さて、エントリーナンバー1番から、一人ずつステージに登場し・・・

なんだか、ミスコンというより、派手な化粧のコスプレ大会みたいになっちゃっている気がするのは、私だけだろうか・・・。
いやしかし、私のほか、能登のお坊さんも、かんちさんも一票入れたこの田中さん。
田中さんだけは、多少コスプレはしても、清楚系のコスプレであると、私は信じていた。
なんたって、ざぜんがくめる田中さんなのだ。
司会者が呼び込む。
「エントリーナンバー9番、田中ろりさん!」
おお、やっぱり「路里」さんは「ろり」さんだったか!!
で、路里さんが、いよいよ登場・・・!!

えっ!?
これが「ざぜんがくめる」田中さん??

田中さん・・・!?

た、田中さん・・・。

私は、コンテストの結果も何も聞かず、このまま会場を後にして、仕事に戻った。
↓クリックのご協力をお願いします!!

最初ちょっと気に入らないかもしれないが、まあ、しばらくするとなれるものだろうと思うので、引き続きよろしくお願いしたい。
さて、きのうの続きである。
「ざぜんがくめる」のNO.9田中さんの実物がどうしても見たくなり・・・
(↓この人ね)

寿司屋の大将に、ミスコンイベントの日時はいつか、メールで問い合わせたところ・・・
なんと、スタートはきょうの12:00!!
で、いま、取材に行ってきた。

学生さんのイベントなので仕切りが多少悪い点は仕方がないのだが・・・
一階フロアの会場に入れるのは、エントリーした乙女の応援団だけに限られてしまうというのが、どうしても理解に苦しむところ。
我々取材陣(?)や一般の見学者は、階上からしか見ることが出来ず、アップの写真が撮れない。
ああ、ナガダマのレンズを持っていけばよかった・・・。
さて、エントリーナンバー1番から、一人ずつステージに登場し・・・

なんだか、ミスコンというより、派手な化粧のコスプレ大会みたいになっちゃっている気がするのは、私だけだろうか・・・。
いやしかし、私のほか、能登のお坊さんも、かんちさんも一票入れたこの田中さん。
田中さんだけは、多少コスプレはしても、清楚系のコスプレであると、私は信じていた。
なんたって、ざぜんがくめる田中さんなのだ。
司会者が呼び込む。
「エントリーナンバー9番、田中ろりさん!」
おお、やっぱり「路里」さんは「ろり」さんだったか!!
で、路里さんが、いよいよ登場・・・!!
えっ!?
これが「ざぜんがくめる」田中さん??

田中さん・・・!?

た、田中さん・・・。

私は、コンテストの結果も何も聞かず、このまま会場を後にして、仕事に戻った。
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2009年10月29日
ざぜんがくめる
怨憎会苦というほどのことでもないかもしれないが、サラリーマンをやっていれば、苦手な取引先、苦手な上司、苦手な先輩社員・・・
そんな苦手な相手は多少いるわけで、そんな人を避けて通れるかといえば、それはそんなわけにはいかない。
面と向かって話を通しながら、仕事を前に進めていかなければならない。
それが、サラリーマン稼業をしている、私の修行である。
まあ、こういった組織の人間関係の難しさを苦にして、会社を辞めていく若い社員も最近は少なくない。
が、しかしどうだろう。
辞めたからと言って、その後も社会生活を維持するならば・・・
煩雑な人間関係には一生振り回されるものである。
そんなものなのだ。
ならば出家したらどうかというと、修行道場にはきちんと大衆(だいしゅ)という組織があって、ともすれば会社の上下関係よりもさらに厳格なルールが敷かれていそうである。
僧堂の安居修行を終えた後も、お坊さんにはお坊さん社会がきちんと存在していて、それと向き合うことから逃れられるものではない。
だから「仏教は救いだから・・・」などというイイワケをつけ、出家すればなんとかなるなんて甘い考えは、持たないほうがよい。
むしろ仏教は、「そんなもんだから仕方がない。それを当たり前のことだとおもっちまえ!」という、一見非常に無責任な宗教なのである。
前置きが長くなってしまったが、そんなワケできのうの私は、苦手な人物との作業が積み重なって、午後7:00を回ったころには、グッタリと疲れていた。
このまま帰宅すると、確実に自宅で愚痴り出すことが見えていたので、頭を冷やそうと、久々にひとりで寿司屋のカウンターにすわった。
すると、大将がおもむろに、私の前にこんなものを差し出した。

この寿司屋の近隣にある大学の、学祭パンフレット。
大将、このパンフレットがどうかしたの?
「いやね、実行委員会の学生さんがきて、4000円一クチの広告を出して欲しいというから、協力したんだけどさぁ、どう思う?」

まあ、正直なところ、4000円分以上の広告効果は期待できないねぇ。
「それは俺もよく分かっているんだけどさ、この大学の先生方がお客さんとして、ウチのお店によく来てくださるから、まあ、お付き合いだね」
そう言いつつ、私はページをパラパラめくりながら・・・
更にこう付け加えた。
大将、広告効果が期待できないながらも、一点だけ大将にはミスがある。
「なに?ミスだぁ!?」
そうさ、なんでこのページに、掲載を指定しなかったのか、ということだ。

これは、ミス中京大学を選ぶための、立候補者のプロフィールページである。
「なるほど・・・来年は8000円払って、このページの見開きを買い切るか・・・」
などと言いながら、いい感じにお酒の入ったカウンター常連客と大将は、どの乙女がミス中京大学にふさわしいのか、選出を始めた。
アタマの中が煩悩でいっぱいのおじさんたちは、大盛り上がりである。
で、最終的に自分ならどの娘さんに一票いれるのか、という儀式にうつり、私が選んだのは・・・

NO.9 田中路里さん。
う〜ん、なんて読むんだろう、タナカ ロリさん??
それはさておき・・・
見た目の第一印象で、一番清楚な感じがしたから、一票入れたのだが・・・
よく見ると特技の欄に、「ざぜんがくめる」とある。
すばらしい。
そうか、「坐禅ができる」というのは、特技の欄に書いてもいいのか・・・。
今度から私も自分の特技欄に「ざぜんがくめる」と書くようにしよっと。
↓クリックのご協力をお願いします!!

そんな苦手な相手は多少いるわけで、そんな人を避けて通れるかといえば、それはそんなわけにはいかない。
面と向かって話を通しながら、仕事を前に進めていかなければならない。
それが、サラリーマン稼業をしている、私の修行である。
まあ、こういった組織の人間関係の難しさを苦にして、会社を辞めていく若い社員も最近は少なくない。
が、しかしどうだろう。
辞めたからと言って、その後も社会生活を維持するならば・・・
煩雑な人間関係には一生振り回されるものである。
そんなものなのだ。
ならば出家したらどうかというと、修行道場にはきちんと大衆(だいしゅ)という組織があって、ともすれば会社の上下関係よりもさらに厳格なルールが敷かれていそうである。
僧堂の安居修行を終えた後も、お坊さんにはお坊さん社会がきちんと存在していて、それと向き合うことから逃れられるものではない。
だから「仏教は救いだから・・・」などというイイワケをつけ、出家すればなんとかなるなんて甘い考えは、持たないほうがよい。
むしろ仏教は、「そんなもんだから仕方がない。それを当たり前のことだとおもっちまえ!」という、一見非常に無責任な宗教なのである。
前置きが長くなってしまったが、そんなワケできのうの私は、苦手な人物との作業が積み重なって、午後7:00を回ったころには、グッタリと疲れていた。
このまま帰宅すると、確実に自宅で愚痴り出すことが見えていたので、頭を冷やそうと、久々にひとりで寿司屋のカウンターにすわった。
すると、大将がおもむろに、私の前にこんなものを差し出した。

この寿司屋の近隣にある大学の、学祭パンフレット。
大将、このパンフレットがどうかしたの?
「いやね、実行委員会の学生さんがきて、4000円一クチの広告を出して欲しいというから、協力したんだけどさぁ、どう思う?」

まあ、正直なところ、4000円分以上の広告効果は期待できないねぇ。
「それは俺もよく分かっているんだけどさ、この大学の先生方がお客さんとして、ウチのお店によく来てくださるから、まあ、お付き合いだね」
そう言いつつ、私はページをパラパラめくりながら・・・
更にこう付け加えた。
大将、広告効果が期待できないながらも、一点だけ大将にはミスがある。
「なに?ミスだぁ!?」
そうさ、なんでこのページに、掲載を指定しなかったのか、ということだ。

これは、ミス中京大学を選ぶための、立候補者のプロフィールページである。
「なるほど・・・来年は8000円払って、このページの見開きを買い切るか・・・」
などと言いながら、いい感じにお酒の入ったカウンター常連客と大将は、どの乙女がミス中京大学にふさわしいのか、選出を始めた。
アタマの中が煩悩でいっぱいのおじさんたちは、大盛り上がりである。
で、最終的に自分ならどの娘さんに一票いれるのか、という儀式にうつり、私が選んだのは・・・

NO.9 田中路里さん。
う〜ん、なんて読むんだろう、タナカ ロリさん??
それはさておき・・・
見た目の第一印象で、一番清楚な感じがしたから、一票入れたのだが・・・
よく見ると特技の欄に、「ざぜんがくめる」とある。
すばらしい。
そうか、「坐禅ができる」というのは、特技の欄に書いてもいいのか・・・。
今度から私も自分の特技欄に「ざぜんがくめる」と書くようにしよっと。
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